地域ってなんだ!?01〜アーティスト|木村 健世〜

 「地域ってなんだ」と問われると、自分も地域に暮らし、無人駅の芸術祭でもいくつかの地域と関わらせてもらっている割には「あれ?地域ってなんだっけ?」と立ち止まって右斜め上を眺める、みたいなぽかんとした状態に置かれざるを得ません。
それだけ「地域」という言葉が持っている意味は多様だし、曖昧に用いられるケースが多いのかもしれません。
もちろん僕がその言葉にそれほど意識的ではなかったせいもあります。
ここでは自分の中にあるこの曖昧な状態を逆手にとって「面白い可能性が隠されている状況」と捉えつつ、自分なりの「地域ってなんだ」を考えてみたいと思います。

 僕は「人が暮らす場所を、たくさんのストーリーが散りばめられ、積み重なった一つの文庫」と見立てて、それを可視化するプロジェクトをあちこちで行ってきました。
大井川鐡道の無人駅では「無人駅文庫」としてプロジェクトを展開しています。
アート作品として無人駅に展示されるものは、駅周辺に暮らす人たちが持っている、駅にまつわるストーリーを編んだ文庫目録と、それらを収納する本棚。
そこに到達するまでの間、多くの時間を割くのが、駅周辺に暮らす人たちへのインタビューになります。
これまでの人生でまったく縁のなかった場所に入り、そこで暮らしている人たちにあれこれ話を聞きながら、駅にまつわるストーリーを聞き取っていくのですが、その過程で自分の中に、ある変化があったことに気づきました。
最初はアーティストとして、インタビュアーとして、人々に接しているのですが、様々な話を聞くにつれて、自分はこの人たちから色々なことを学んでいる生徒みたいだな、と思うようになってきたのです。
まったく知らない場所に入るわけですから、すべてが未知、学ぶことが多いのは当然と言えば当然なのかもしれません。
しかし僕にとってはその経験がかけがえのないものとなって、どんどん自分の内に蓄積されていきました。そこで至った想いは「地域って学校かもしれない」です。
生徒は自分、先生はそこに暮らす大勢の人たち。駅にまつわるストーリーを聞く過程で、ひとりひとりの人生が描いてきた足跡や、周辺環境の変遷、歴史、子供時代の遊び、風土、数えきれないことを教えてもらえました。
自分は生徒としていろいろ学べる、では教える側の先生はどうでしょうか。どんな気持ちで僕に語ってくれていたのでしょうか。
そこまでは未だ聞くことができていないので、 想像するしかないのですが、インタビュー後にこんなことを言ってもらったことがありました。
「こんな話、なんの役にも立たないと思ってたから、あんたに話すまで、誰にも言ったことがなかったよ。聞いてくれてありがとう」と。
話を聞かせてもらう立場としては、まさか礼を言われるとも思ってもいなかったので、驚き、同時にこちらも嬉しくなり、さらにお礼を返した記憶があります。
もしこの時に僕にお礼を述べてくださった方の心の中に、ほんのり明かりが灯ったならば…。
そこまで肯定的に考える自分は能天気なのかもしれませんが、それ以来なにか温かい可能性を感じ続けています。

 学校性というものは、そもそも地域が内包していたもので、たまたまその側面に僕が触れたに過ぎないのかもしれません。
しかしだとしたら、その側面にもっと多くの人たちが触れやすくなる仕組みのようなものが作れないかなと考えています。
その地域に住まう人たち、それから外からやってくる人たち。
お互いがキラキラできるような、ゆるやかな風土が醸成されるようなことがあれば─。

 そんなことを考えていたら、わくわく、そわそわしてきました。

木村健世|Takeyo Kimura

出身地:福島県
活動地:東京都

2001年アートユニット「フタボンコ」を結成、以降「まち」にさまざまなプログラムを挿入し、場を様々な角度から見つめながら「まちづくり一歩手前の行為としてのアート」を多数手がける。
2008年より個人名義で活動。近年は人の暮らしが紡ぐストーリーを聞き取りによって集め、場を文庫として捉える作品を展開している。